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神田・江戸散歩 神田錦町
神田司町
連雀町、淡路町
万世橋、秋葉原
宮本公園に銘木の家
やっちゃ場のふるさと多町
小川町おがわまち
今頃になって鎌倉町
花見に行くなら
御茶ノ水
飯田町が飯田橋に

神田錦町

 神田錦町。なんだか美しい響きのある町名ですね。JR神田駅の西側。内神田1丁目の西端にある本郷通りの向こう側で、白山通りの手前まで、南北は靖国通りと外堀通りに挟まれた地域です。

 江戸時代はこの辺りは武家屋敷であったため町名はありませんでした。しかし、「錦小路」という名前が存在しました。右の地図は文久3年(1863)に改定された江戸切絵図(尾張屋版)ですが、右の路地に「錦小路」と書かれているでしょう。上が南、左が東です。「錦小路」の左側(東)の少し広めの通りの上(南)に「神田橋御門」とあるのが分かりますか?ですからこの広めの通りは今の本郷通りに当たります。

 この辺りに一色家が2軒あったことから、一色が2つで「二色」としゃれて後に「錦」の名を当てたという説があります。もっとも、この周辺を所有していた護寺院に、錦のように美しい虫を祀った弁才天堂が建っていたため、あるいは住人が京都の錦小路にあやかって名付けたなどの説もあって、本当のところは分からないみたいです。

 江戸時代に2度の大火に遭って、その都度火除地とされましたが、その後再び武家地になったのです。明治5年(1872)に「神田錦町」の名前になりました。

江戸切絵図の錦小路
学習院大学開校地記念碑

 「錦小路」が本郷通りの西隣の道なら右の写真の通りだろうと思われます。この通りには左の写真にあるような「学習院(華族学校)開校の地」という石碑が建っています。神田錦町は、明治に入って学校がいくつも建設された土地です。岩波書店の創始者である岩波茂雄が教鞭をとった神田高等女学校。現在の中央大学の前身となった英吉利(イギリス)法律学校。東京電機大学の前身である電気学校。現在学士会館のある辺りは東京大学発祥の地です。

錦小路の今

 電機大学初代学長の丹羽保次郎さんは、現在のファクシミリの元になった「無線写真電送」を発明した方です。学問の町だったんですね。

 学士会館は一橋交差点の角にありますが、ここには「わが国大学発祥の地」という記念碑が置かれています。その反対側にボールを持っている右手の像が立っています。これは「野球発祥の地」の記念碑です。明治5年(1872)にアメリカ人牧師のホーレス・ウィルソンが生徒に野球を教えたそうです。

神田錦町2丁目町名由来板 学士会館

 この記念碑のボールは地球をデザインしてあり、アメリカと日本が描かれています。

 どうでした?神田錦町って面白いでしょう。1〜3丁目までありますが、町名由来板は4箇所にあります(3丁目が2本ある)。上の写真は2丁目の由来板。神田警察署のすぐ近くに立っています。そんなに広い地域ではありませんから、一度散歩でもしてみられたら面白いと思います。

野球発祥の地記念碑
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神田司町
司町交差点表示

 神田「つかさまち」なのです。「つかさちょう」ではありません。千代田区には「まち」と読む町が4か所あります。「小川町」「大手町」「麹町」と「司町」です。交差点の表示も左のように「Tsukasamachi」となっているでしょう。でもこのプレートをよく見ると英語の所だけ色が少し違います。前は「Tsukasacho」だったのを修正したのです。

司町2丁目案内板
古地図神田司町界隈

 で、司町は「2丁目」があって「1丁目」はありません。住居表示の変更に伴って、内神田1,2町目の一部になってしまい、今では町会の名前にしか残っていません。

 司町の交差点から外堀通りを昌平橋方面に行くと「司町2丁目」の交差点があります。その近くに町名由来板がありますから探して読んでみてください。この辺り神田雉子町(きじちょう)の名主だった斎藤月岑(げっしん)が住んでいた町です。現在の司町1,2丁目辺りには、江戸時代の初期には武家屋敷もあったようですが、元禄時代以降はほとんどが職人町になりました。

現在の神田近辺の地図

 古地図を見ると、「銀(しろがね)町」「竪大工町」「横大工町」などの町名が目立ちます。昭和初期にこうした小さな町が統合されて「司町」となりました。神田神社の宮司平田盛胤(もりたね)さんが、「司」が縁起の良い文字であり、「者の頭領なれば未来永劫栄ゆること疑いなし」という意味から命名されたそうです。

 上の古地図の左上の角に書かれた橋は「昌平橋」。その右側は「筋違橋御門」、右端は「和泉橋」、川は神田川です。ですから「筋違橋御門」の上方には、現在の秋葉原駅があるという位置関係になります。  左下は神田橋で、下を流れるのは日本橋川(江戸城外堀)です。神田橋から上の方に延びる道が少し逆「く」の字になっている辺りが現在の美土代町交差点だと思われます。

 江戸時代のこうした地図の町名の表示は、江戸城の方角を頭に描かれているので一見使いにくそうですが、当時はたいそう便利な作り方だったのです。

斉藤月岑と江戸名所図会

 斉藤月岑(通称「市左衛門」)は神田雉子町の名主として6か町を支配し、神田青物市場の監督をしていた有力町人です。町奉行の委任を受けた町年寄の下で町人町の行政などを担当しました。
 月岑のお爺さんの幸雄は江戸の町の案内書である「江戸名所図会(ずえ)」という本の作成を手がけましたが、完成せずに他界しました。その遺志を継いだ息子(月岑のお父さん)幸隆は、江戸以外の近郊の名所まで範囲を広げて図会作成を続けましたが完成させられませんでした。これを完成させたのが3代目の月岑です。
 この図会は大変詳しい文章と絵で説明されていて、江戸時代の町の様子や暮らしを調査する極めて重要な史料となっています。絵は長谷川雪旦、雪提が描きました。

江戸名所図会「回向院」

江戸名所図会の「回向院」。江戸時代の建物の規模や人々の風俗や暮らしの様子もよく分かる貴重な史料です

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連雀町、淡路町
連雀町、佐柄木町由来板
連雀町・佐柄木町の由来板。藪蕎麦のすぐ近くに立っています

 今の淡路町2丁目界隈は、江戸時代には「連雀(れんじゃく)町」や「佐柄木(さえき)町」でした。前の「司町」のページに載せてある古地図ではほとんど読めませんが、筋違橋御門の下(南)の広くなっているところが「八ツ小路」と名付けられた火除地です。そのすぐ南の町人地一帯が「佐柄木町」「連雀町」です。

 「連雀」は元々荷物を背に背負って運ぶ時に使う背負子(しょいこ)の縄で編んだ部分を言いましたが、転じて背負子全体や、これを背負って行商する人たちのことを意味するようになりました。
 連雀町は、元は八ツ小路付近にありました。連尺を作る職人が多く、連尺が立てかけられていた行商人の家が目立ったので「連尺町」と呼ばれ、のちに「連雀町」となったそうです。

連雀
連雀。連尺とも言います

 明暦3年(1657)に江戸の6〜7割を焼き尽くした大火(いわゆる「振袖火事」)の後、筋違橋御門(今の万世橋あたり)の南側を類焼防止のための空地(火除地)とし、町屋を南に移しました。この時に連雀を商っていた25世帯が武蔵野へ移住させられ、その人たちが住んだ土地が今の三鷹市上連雀、下連雀になったのです。

 佐柄木町の由来は、江戸幕府の研ぎ師であった佐柄木彌太郎の拝領地だったから。連雀町も佐柄木町も今では須田町1丁目と淡路町になっています。

 「淡路町」の名になったのは明治5年(1872)。昌平坂からJRに沿って御茶ノ水に向かう坂が「淡路坂」と呼ばれたことに由来します。この近くに鈴木淡路守の屋敷があったことに関係しています。

藪蕎麦
有名な「藪蕎麦」。ちなみに店内終日禁煙です

 この界隈、木造の古い店が数件残っています。東京大空襲にそこらじゅうが火の海に包まれたのに焼け残ったんですねぇ。何でも、湯島聖堂辺りに鬱蒼としていたイチョウやケヤキの木々が風下に当たるこの地域の類焼をかろうじて防いだんだとか。

 趣のある老舗は故池波正太郎さんもよく足を運んだそうです。

いせ源
アンコウ鍋の「いせ源」。冬はかなり混む
ぼたん
鳥鍋の「ぼたん」。炭で炊きます
竹邑
甘味処の「竹邑(たけむら)」
ぼたんの行灯 出世稲荷

 出世稲荷神社。この辺りの鎮守ですが、明暦の大火の後、元の連雀町からここへ遷座させられたものです。この他に延寿稲荷神社という鎮守もあります。こちらは元の土井能登守の屋敷にあったものが、明治になって屋敷が廃止され、この地の鎮守として残されたものらしいのです。


 次回はこの近くの万世橋、秋葉原周辺をご案内しましょう。

藪蕎麦の行灯
まつや
蕎麦の「まつや」。太打ちが有名
竹邑の行灯
それぞれの店の軒には、これまた趣のある行灯がつるされています
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万世橋、秋葉原

 神田駅から中央通りを北へ進み、靖国通りと交差する須田町交差点を過ぎて秋葉原へ向かうと、神田川に万世橋がかかっています。

 江戸時代にはここに筋違橋(すじかいばし)御門があり、将軍が上野の寛永寺(徳川家の菩提寺)に参詣する際に使用された「御成道」として橋がかけられていました。明治5年(1872)に御門が取り壊され、翌年その石材を使用してアーチ形橋脚の石橋が建造されました(日本で最初の石橋)。東京府知事は「萬世(よろずよ)橋」と命名しましたが、次第に「まんせいばし」と呼ばれるようになりました。この時の橋の位置は現在より少し上流側だったようです。
 明治6年(1873)に上流の昌平橋が洪水で破壊され、万世橋の少し下流(実は現在の万世橋の位置)に仮橋がかけられました。

万世橋駅
関東大震災で被災する前の万世橋駅

 ですから、一時期は万世橋の下流に昌平橋があったのです。明治36年(1903)に仮木橋の昌平橋の位置に「新万世橋」が架けられ、元の万世橋「元万世橋」は3年後に撤去されました。万世橋は大正12年(1923)の関東大震災で被災しましたが直ちに復旧されました。現在の万世橋は昭和5年(1930)に架け替えられたものです。

 この辺りは江戸時代から青物市場を中心とした一大流通拠点として栄えました。甲武鉄道(1906年に国有化)は明治45年(1912)に万世橋駅の営業を開始、モダンな煉瓦造りの駅舎は東京駅を設計した辰野金吾の設計によるものです。この駅の開業によって、それまで御茶ノ水と万世橋間にあった昌平橋駅は廃止されました。

万世橋跡
旧交通博物館裏に残る万世橋の駅舎
秋葉原は台東区に

 大正8年(1919)に万世橋〜東京が開通、同時期に神田駅が開業し、万世橋駅は中央本線の終着駅としての役目を終えました。関東大震災で煉瓦造りの万世橋は倒壊し、簡素な駅舎が再建されましたが、大正14年(1925)に秋葉原駅が旅客営業を始めたために、万世橋駅利用者は急減しました。昭和18年(1943)、万世橋駅は休止(事実上廃止)することになりました。駅の取り壊しで発生した資材は、京浜東北線新子安駅の建設に流用されたそうです。

 さて、万世橋の北側は世界の「秋葉原」アキバです。この読み方本当は「あきばはら」。明治2年(1869)12月の大火後、この辺りを火除けの空地(はらっぱ)とし、今のJR秋葉原駅構内に当たる地に「鎮火社(後に「秋葉社)」が立てられました。江戸時代から火伏の神として広く信仰を集めた「秋葉大権現」であると、近辺の人たちが呼ぶようになり、いつしか「あきばはら」「あきばがはら」「あきばっぱら」などと呼ばれるようになったのです。
 秋葉原駅が開業するときに鉄道省の役人が間違えて「あきはばら」と命名してしまったようです。

旧万世橋交番
万世橋交番。江戸東京たてもの園(東京都小金井市)に移設されています


 ところで、秋葉原駅は千代田区にありますが、秋葉原という地名は千代田区内にはありません。もともと江戸時代からそんな町名はなかったのです。でも、駅の北、神田松永町の先に「台東区秋葉原」があります。秋葉原駅が開業した際に、秋葉社が台東区松が谷3丁目に移転され,秋葉神社にちなんで「秋葉原」の町名になったのではないでしょうか。JR秋葉原駅内には今も秋葉神社の神棚が祀られて、毎年10月にお祓いをされている、と東京新聞に書かれていました。

 JR武蔵小金井駅または東小金井駅からバスで「小金井公園入口」または「小金井公園西口」で降車し、10分ほど歩くと「江戸東京たてもの園」に到着します。

 東京の下町にあった古い商店や、高橋是清邸、大地主豪農の屋敷、田園調布などにあった近代的住宅など見どころいっぱいです。都電や都バスも展示されていて、バスは今でも園内を運行するそうです。

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宮本公園に銘木の家

 神田明神駐車場の横にある宮本公園にとっても素敵な民家が立ちました。千代田区指定有形文化財「遠藤家旧店舗・住宅主家」です。本年(平成21年)4月13日に完成。15日から公開されています。

 この住宅は神田明神氏子総代で平将門研究家でもある遠藤達蔵さん(個人)の住宅で、江戸時代初期から材木商を営んでこられた遠藤家の店舗兼住宅です。この建物は昭和2年(1927)に鎌倉河岸に建てられましたが、昭和48年(1973)に建て替えられることになりました。解体が惜しまれ府中に移築されていました。
 遠藤家の希望によって区文化財の指定を受けたのを機に宮本公園に「お里がえり」となったのです。

 鎌倉河岸に存在した時の姿をほぼ留めており、材木商らしく銘木が使用されています。壁は贅沢にも黒漆喰。その壁に遠藤家の屋号「井政」の看板が立派です。
 管理はNPO法人「神田の家」が行っています。観覧両100円です。

2階の甲欄を支える台も小鳥が彫られているなど凝ったものです。ただし、観覧できるのは1階の一部だけ
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やっちゃ場のふるさと多町

 久々に神田周辺の街を歩きましょう。JR神田駅西口を出て右方向(淡路町方面)へ伸びる比較的広い通りは「多町大通」と言います。この通りに多町1丁目の町名由来板が立っていますが、現在の住居表示上は「1丁目」はなく司町同様多町には「2丁目」しかありません。
 神田警察通りを越えると「多町2丁目」です。ここに多町2丁目の町名由来板があります。

 上の写真は多町2丁目の町名由来板で町会の袢纏があしらわれています。表側の襟の部分には「丸かんだ」(丸く形どった「かん多」の文字)に「多貮(た・に)」と書かれており、背中の大紋も「多貮」です。神田駅周辺は江戸時代の職人町でした。とくにこのあたりは江戸古町と言って、徳川幕府が開かれた当初(寛永年間1624〜44)以前に出来上がった30余りの町の内22町が神田に集中していました。ですから、大工町、鍋町、塗師町、鍛冶町、紺屋町などの町名が目立ちます(明治から昭和にかけて消滅させられた名前もたくさんありますが)。

 慶長11年(1606)に町ができた時は「田町」だったようで、神田界隈で3番目にできた町です。もともと低湿地帯だったから田圃を埋め立てたのかも知れませんね。後に「多町」という表記に変わりましたが、1丁目あたりには「纏屋治郎右衛門」という職人が店を構えて江戸の火消し纏制作を一手に引き受けていました。多町1丁目という町は江戸時代にもありましたが、現在の1丁目の江戸時代の町名は「多町一丁目」「竪大工町」「新石町」で昭和の初期までこの町名が存在していました。昭和8年(1933)に「多町1丁目」に変更され一部は鍛冶町2丁目に編入されました。

嘉永3年新刻、金麟堂尾張屋板江戸切絵図。下側が日本橋一番広い通りが室町中央通りから延びる東海道。突き当たりの筋違御門にかかる橋が現在の万世橋あたりです。現在と道筋はあまり変わりません。

 多町2丁目の町名由来板は多町大通を北へ進んで一八通りを右へ曲がったところに立っています。

 左の古地図は嘉永3年(1850)に作成されて後に改定されたものです(司町でも紹介しましたね)。地図は江戸城大手門を起点に作られていて、大手門側を書き出しにしていますから文字がさかさまになって少々見にくいかも知れません(ですがこの作り方が便利だったんです)。多町一丁目の左側(西側)、横大工町と銀町に挟まれたところに「御青物役所」と記されているのが読めますか?正徳4年(1714)に置かれた役所ですが、このあたりが将軍家へ野菜を納める御用市場だったことを偲ばせます。江戸時代の早くからここは野菜が売られる市場が成立しました。多分昌平橋あたりにあった昌平河岸で荷揚げされた野菜が売られていたんでしょう。

 日本橋北詰には魚市場が起ち、多町界隈には青物市が立ったのです。こうして発展した「やっちゃ場」でしたが、昭和3年(1928)に秋葉原へ移転、今は大田市場に移されています。

 ところで多町大通の神田駅近くに「神田下水跡」の碑が建っているのをご存じ?東京で初めて西洋式下水道が埋設されたのがここから日銀通り辺りまででした。明治10年(1877)に神田地区でコレラが発生し、下水の衛生状態が問題になって明治16年(1883)に610メートルにわたって地下2〜3メートルに下水道が埋設されたのです。今も使われているのかな?(調べてみます)

JR神田駅西口辺りから見た多町大通
多町大通に設置された史跡説明板

 多町あたりには結構古い家が残されています。戦災を受けながらも焼け残った家屋です。

 @はミルクホールののれんが掛かっているラーメン屋さん。Aは青物の塩栄。ともに銅板葺です。銅板だったから焼け残ったのかも知れません。Bは漆喰壁が残る千代田区指定文化財松本家です。

@ミルクホール
A塩栄青果店

B松本家
 このあたりがやっちゃ場だったころにワサビで財をなした方だそうです。軒下に桁を飛び出させている「出桁(だしげた)作り」は当時の豪商の代名詞でした。2階窓外の甲欄と言い、大屋根下の黒漆喰と言い、立派なものです。

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小川町おがわまち

 小川町は「おがわまち」なんです。駿河台下の低地で靖国通りの淡路町交差点あたりから駿河台下交差点あたりまでの地域で靖国通りを挟んで南北に分かれた町です。スポーツ用品店がひしめきあう町で有名です。

 江戸時代は神田の西側半分を占める広大な地域の俗称でした。幕府が江戸におかれた当初は鷹匠がたくさん住んでいたので「元鷹匠町」と称され、元禄6年(1693)に小川町と改称されました。5代将軍徳川綱吉による「生類憐みの令」で鷹狩りが廃止され鷹匠が失職したことが影響したとか。
 新しい町の名の由来は、このあたりに清らかな小川があったとか、小川の清水という池があったからなどと言われています。

靖国通り
靖国通り。駿河台下から淡路町方面を望む
江戸末期の地図
文久3年(1863)の地図。上が南
一つ橋通小川丁
拡大図。「一つ橋通小川丁」が見える

 現在の駿河台から湯島辺りまでは「神田山」という急峻な台地で、小川町あたりはその南端に位置しますから水が豊かだった可能性はありますね。

 でも、武家地だったったから幕末に近い古地図には町名が記されていません。

 ただ、よく見ると一つ橋から北へ延びる通りには「一ツ橋通小川丁」(今の白山通り)、雉子橋から北へ延びる今の専大通りに当たるところには「雉子橋通小川丁」の表記があります。

 靖国通りは小川町の辺りで大きく蛇行していますが、これは江戸時代と全く同じ道筋なのです。幕末から明治になるころには武家地が廃止され、町人町に変わって商人がたくさん住むようになったようです。明治37年(1905)には「前垂(まえだれ)会」という日本最初の商店会ができました。その前垂会が、前垂をしっかり締めて商人の志を忘れず平和で明るい商店街を続けようという趣旨です。

小川町1丁目町名由来板
小川町1丁目南の町名由来板
前垂会平和の鐘
前垂会の平和の鐘
額の優美堂
額制作の優美堂。建物は優美とは…
刃物の菊一文字
刃物の菊一文字。本店は京都

 靖国通りに沿って5つの「平和の鐘」がおかれています。
 小川町には明治以降に商いを始めた古いお店がたくさんあります。この辺りをぶらぶら歩くのもなかなか楽しいものです。食べ物やも多いヨ。

能狂言の本専門店檜書店
能・狂言の専門店檜書店
カオのYシャツ
「カオのYシャツ」という店
額装の草土舎
額装の草土舎
筆の温恭堂
筆の温恭堂。明治7年創業


 今日(2月4日)、このホームページ作りをやっている最中に「朝青龍引退」のニュースが飛び込んできました。朝青龍が好きなお方には申し訳ないけど、オジサンは気分良かったねー。遅すぎたくらいですよ。「巡業サボリ」事件のときにきっぱり切るべきだったと思いますね。あんな下品な関取に土俵を汚してもらいたくありません。期せずして今日は立春。相撲協会にも春が来たというものです。
 相撲は江戸時代には寺社の修繕費用を集める名目で流行した興業でしたが、それ以前の起こりなどを含めて意義が高められ、神事としての儀式や礼儀が重んじられる、日本独特の様式をもつスポーツになりました。土俵上では勝っても負けても、相手に対する敬意や神への畏敬の念を大切にし、喜怒哀楽をむき出しにしないということが求められます。今回理事に立候補し当選した貴乃花の現役時代も、土俵での態度はまことに気持ちの良いものでした。彼が表情を激変させたのは痛めた右膝を抱えての優勝決定戦で、武蔵丸に勝った直後だけでした。高見盛も安いパフォーマンス止めた方がよいと思います。

 まぁ、辞めることになったんで、元横綱には「ゴクロー」ぐらいは言っておきましょう。高砂親方も辞めたら…

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今頃になって鎌倉町

 鎌倉町を紹介いたします。「今頃?」と思う方もいらっしゃると思います。「勇會紹介」のページに鎌倉町を紹介していますので、長らく不思議には思わなかったんです。でも、勇會の地元鎌倉町はちゃんと紹介しなきゃねって考えて今回載せることにしました。

 町名が変更されたために鎌倉町の町名は残っていません。内神田1丁目と2丁目になっています。

 江戸時代の鎌倉町はそんなに大きな町ではありませんが、徳川家康が江戸幕府を開いた直後からあったいわゆる江戸古町の一つです。右の写真の鎌倉橋の両側手前、神田橋から龍閑橋交差点辺りまでにありました。

現在の神田橋

 江戸城築城に必要な石や木材が陸揚げされたところが鎌倉河岸(右の古地図の堀・日本橋川の手前)です。鎌倉からこれら建材が運ばれたから、と言われています。河岸に沿って職人たちが住んだ鎌倉町が古地図にも見えます。この地図の堀の右側の先が神田橋です。堀がくの字に曲がっている所に見える小さな橋は龍閑橋です。日本橋川につがなる細い掘割は龍閑川と言って船運と防火対策を兼ねて掘られました。

江戸切絵図神田鎌倉町あたり

 龍閑川はもうありませんから橋もないのですが、龍閑橋があった辺りの交差点に「龍閑橋」の名が残っています。交差点をちょっと常盤橋側に歩くと龍閑橋が残されています。柵で囲まれているので触れることはできませんが、ご覧のようなかわいい橋でした。猫の住み家になっているようです。

龍閑橋
龍閑橋交差点

 ちょっと古地図に戻って、鎌倉町の一角に小さな赤い四角が見えるでしょう。これ御宿稲荷です。その右側の三河町は三河の国から移った職人たちが住んだ町です。

物揚場跡

 外堀通りを神田橋交差点方面に行くと、交差点の手前左に「物揚場(ものあげば)跡」の石碑がおかれています。ここもいろいろな物資を陸揚げしたところですが、主として町人が使用する「河岸」に対して武家が使用するところは「物揚場」と称して区別していました。このうんと先には「錦町河岸」もあって、日本橋川が水運の要だったことが分かります。
 上の古地図をみると、三河町を境に右側は白地になっていますね。これは武家地であることを表しています(町人地は灰色地)。これら武家屋敷のための物資を陸揚げしたんでしょうね。
 ちなみに三河町の右隣りの武家地には「御勘定御奉行」と書かれています。尾嶋公園の裏手あたりになるでしょう。
 

 さて鎌倉町(と言っても現在の「内神田鎌倉町会」)で勇會会員がちょくちょく出入りしているお店をご紹介しましょう。

 最初にご紹介しなきゃいかんのはなんといっても浅野屋本店です。創業明治5年、現在の当主は4代目の和久井喜治郎さん。我らが勇會相談役、初代副会長です。出世不動通りのホテル「コニゾ神田」の向かいにあります。木鉢会の老舗です。お酒のつまみもたくさん揃って、もちろん蕎麦もホントにうまい店です。

浅野屋看板 浅野屋
あい津 あい津店内

 浅野屋本店の筋向いに「御食事処 あい津」があります。居酒屋ですが、信じられないくらい狭い、そして安い店です。すっぽん鍋は名物。フグもやります。当主は石村さん。時々お母さんが手伝ってます。

由依花ちゃん

 最近お店でアルバイトをしているのが由依花(ゆいか)ちゃんです。吉本興業のお笑い芸人ですが、明るくて常連のオジサンたちのマスコットです。神田駅にも近いし、機会があったらちょっと寄ってみません?

地図

 さて最後にご紹介するのは豊島屋という酒屋です。現在地は猿楽町で錦華公園の前あたりにありますが、元は鎌倉河岸にありました。江戸名所図会にも描かれるほどの有名店で、お酒を安く量り売りをして大繁盛しました。とくに毎年2月25日1日限りの白酒の安売りは有名。その当日は酒や醤油の販売を止め、店頭に「酒醤油相休申候(さけしょうゆあいやすみもうしそうろう)」の看板を掲げました。

豊島屋本店 豊島屋の杉玉

 販売当日には店の入り口屋根に櫓(やぐら)を作り、医者と鳶を待機させたそうです。店先が混雑するので、怪我人が出た時は鳶が鳶口を使って櫓の上に引き揚げて医者に手当てをさせたそうです。すごいモンですね。豊島屋は前もって切手を発行して、売り出し当日は現金を扱わないという工夫をしました。カギに十の字の紋は今も変わりません。

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花見に行くなら

 ようやくお天気も春らしくなりましたが、桜はもうほとんど終わってしまいました。花見に行けた人もいけなかった人も、勇會のウェブ花見はいかがでしょうか。
 上野や隅田川あたりも結構ですが、小石川後楽園はなかなか良い庭園です。元水戸徳川家上屋敷内の庭園の名残です。最寄駅は飯田橋です。

後楽園のしだれ桜
小石川後楽園
小金井公園の桜

 少し郊外に足を伸ばして、小金井公園はどうでしょう。JR武蔵小金井または東小金井からバスで行けます。「COCO」という小さいバスだと100円です。広さと360本以上の桜は見事です。ここはベンチとテーブルがいくつも設置してあって結構楽な花見ができます。ただし、春休み時期と重なりますのでわんさかの家族づれでご覧のようなありさま。

 近くに江戸東京たてもの園があって、江戸・明治・大正・昭和のレトロな建物が移築されいてなかなか楽しめます。

 小金井ほどではないにしても、都心からは少し離れますが目黒川の桜もきれいですよ。川幅の狭さが美しさを醸し出しているかも知れません。
 桜の時期は両側の側道をホコテンにしてありますので、狭い道路ですがゆっくり桜見物できます。

 食べ物・飲み物の出店も大変多く、しかも町会で運営しているらしくテキヤさんはいません。実にいろいろな出店があるのですが、中目黒駅の近くで、フランス料理でしょうかナントカと言うビストロが出店していました。自家製ソーセージ(モロッコ風だって)がなかなか旨い。わずかにニンニクの香りがして、太めのソーセージが1本500円。若い人なら数本はイケちゃうでしょう。ワインも良いものを用意しています。注文に合わせて焼いているからでしょうか、長蛇の列でした。"saucisson a la maison"ってかいてあったけどなんて読むんだ?

 他にも町内会だか商店会だかがやっているお店もあって楽しいこと受け合います。

目黒川の桜
目黒のビストロ   
 若いシェフさん2人(手前と奥の白い厨房着を着てる人)が黙々と焼いてます。左上に映っているのがモロッコ風自家製ソーセージ。 その隣でもソーセージを焼いて売ってるんですが、こちらはごく普通のソーセージです。
飛鳥山の桜

 これも少し遠めですが飛鳥山もよろしいかと思います。JR王寺駅からすぐの公園ですから便利はよろしいですね。ただし思いの外狭いんです。ここは8代将軍徳川吉宗が紀州から桜を持ってこさせてここに植え、庶民の行楽地として作ったところです。
 江戸時代から営業していた扇谷が駅で卵焼きの販売をしてます。ただし並びますよ。

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御茶ノ水

 「御茶ノ水」って駅名にはあっても町名にはありません。「そんなこと言われなくったって分かってら」と返されそうですが、まぁまぁ…。

 御茶ノ水駅は駿河台の上にあります。この辺り一帯は江戸時代には「神田山」と呼ばれた本郷台地の一部です。中央線沿線に神田川の渓谷が流れていてなかなか素敵な駅です。

 この神田川は千代田区と文京区の境界です。神田川の南側は千代田区神田駿河台、北側は文京区湯島です。しかし境界線は東京メトロ丸ノ内線御茶ノ水駅あたりで北上し、湯島聖堂を廻り込むように明神坂下辺りから明神坂を横切り今度は北西に進んでいます。湯島聖堂は文京区、神田明神は千代田区に入るように線を引いた形です。そんなわけで区の境界がちょっと複雑なんですな。タバコを吸う人、要注意!
 どうでもいいことだけど、JR御茶ノ水駅の住所は千代田区神田駿河台、東京メトロ御茶ノ水駅は文京区湯島なんです。

 さてこの「御茶ノ水」の名前は、徳川将軍家に収めるお茶用の清水が湧出していたことに由来します。その碑はお茶の水橋たもと(駿河台側)の交番の裏にあります。猫の額ほどの小さな小さな盛り土の中に「お茶の水」と彫られた石碑がひっそりと立っています。
 もうちょっと何とか史跡らしくこしらえてほしいように思いますが、都内の史跡ではこれでもいい方ですよ。その内ご紹介しますが、北町奉行所跡なんてひどいモンです。

神田側
「お茶の水」石碑
平河の変遷  御茶ノ水駅横を渓谷のように流れる神田川。これ江戸時代に川筋をつくりかえた人口の川です。
 神田川の前身は平川といって、日比谷の入江(今の日比谷公園一帯)に流れ込んでいました。水源は井の頭池・善福寺池・妙正寺池です。江戸城のある高台の北東から東を流れて日比谷に注いでいた平川を、江戸城北側で東向きにつけかえました(新平川)。徳川家康が江戸に入府した直後のことですが、この時の川筋は駿河台下南側を通って今の日本橋の少し東側(隅田川の手前)から南へ江戸湾に注がれました。大名屋敷の用地確保のために神田山を削った土で日比谷の入江を埋め立てた時に川筋が変更されたのです。
 その後川筋は再び変更されました。今度は、今の水道橋駅あたりから神田山の南側を東西方向に掘削して隅田川に注ぐようにされました。これが現在の神田川なんです。
 新平川はそれ以前の川とは断絶されて堀となりました。堀の東端あたりに日本橋が架けられたこともあって「日本橋川」、また江戸城の外濠の役目を持っていたために「外濠川」と呼ばれました。これも今残っています。
 ちなみに、元々平川が日比谷の入江に注いでいたあたりに平川村がありました。そこには古くから天満宮と山王社という2つの神社があったのです。これが埋め立てのために一旦城内に移されその後麹町台地へ移転させられ、今の日枝神社(山王権現)と平河天満宮になりました。平河天満宮が江戸城内にあった時代に天満宮付近に梅の木がたくさん植えられましたが、これが江戸城内の梅林坂の名前で残っています。
 ところで、駿河台のふもとにある太田姫神社。これは結構古い神社で、太田道灌が江戸城を築いた15世紀中ごろ、重い病気にかかった道灌の娘の回復を京都伏見の一口里(いもあらいのさと)の神社に祈願し、快癒したことに感謝して江戸城に勧請した明神社が起源です。
 この神社が家康が江戸入城の際に神田山に移されました。後世になって鉄道拡張工事の障害になったため、現在地に移転させられました。神田山に存在した場所は聖橋から淡路坂に入るすぐ手前(臨時改札口前)です。そこにはご神木に「大田姫神社元宮」と書かれた小さな板切れがくくりつけられています。淡路坂を別名「一口坂(いもあらいざか)」というのは、元宮が一口村の明神社で別名「一口稲荷」と呼ばれたからです。
 
 再びちなみに、元宮の前のビル(日立製作所本社だったかな?)内に「蜀山人終焉の地」という碑が立っています(今は工事で見ることができません)。幕臣でありながら狂歌師として有名だった蜀山人こと太田南畝(なんぽ…本名直次郎)は晩年ここに住んでいました。この人結構幕府を風刺するような狂歌などもたくさん世に出していますが、40歳代で昌平黌(今の湯島聖堂)で学び、学問吟味(試験ですな)で御目見(おめみえ)以下の部門でトップの成績で卒業しました。凄いですね。その時もう1人トップの成績を取ったのが遠山左衛門尉景晋(かげみち)・金さんのお父さんです。こちらは御目見以上ですがね。
大田姫神社元宮跡
元宮の木札
現在の大田姫神社
現大田姫神社  千代田区神田駿河台1―2
大久保彦左衛門屋敷跡  御茶ノ水駅かいわいの地名は「神田駿河台」です。徳川家康が駿府城から江戸に拠点に移した時に家康恩顧の直参旗本が移り住んだ所。彼等は「駿河衆」と呼ばれたので旗本が住む地を「駿河台」と言ったんですね。
  
 三河物語の著者で有名な大久保彦左衛門こと大久保忠教(ただたか)の屋敷もここら辺にありました。御茶ノ水橋から明大通りを少し下った左側、杏雲堂病院の横に「大久保彦左衛門屋敷跡」の石碑が光っています。一心太助との交友やタライに乗って登城なんてのは講談の世界にすぎませんが、彦左衛門さんはかなりの豪傑武将だったことは確かです。若いころから家康のもとで相当の武功を挙げ、戦士の軍功確認の際に彦左衛門さんの意見が重視されたそうです。大坂の陣では御槍奉行、その後御旗奉行を務めるなど、家康の厚い信頼を得ていたようですね。三代将軍家光はたびたび彦左衛門さんを呼んで話を聞いたそうです。
 こういう経歴を下敷きにして、将軍との信頼関係も厚かったから、後の幕府の政策にも大胆な批判をする、なんてこともあったようで、「天下のご意見番」は誰が言ったのか知らないけど、かなり存在感のある人だったことは間違いなさそう。
 御茶ノ水駅に両側には御茶ノ水橋と聖橋が架けられています。御茶ノ水橋は確か昭和6年(1931)の架橋だっと思います。

 聖橋は関東大震災(大正12年・1923)の復興架橋で昭和2年(1937)に架け変えられました。橋を挟んで湯島側に湯島聖堂、駿河台側にニコライ堂(日本ハリストス正教会教団東京復活大聖堂)があるので「聖橋」。ロマンティックですねぇ。
 この名前一般公募で決まったんだって。
ニコライ堂 ニコライ堂の正式名
 参考までに、「ハリストス」ってキリストのギリシャ語読みなんだって。ハリストス正教は「ギリシャ正教」とも言われます。ロシア人で日本で伝道活動をして日本で亡くなったニコライさんの名にちなんで、ニコライ堂の名前で親しまれています。

 最後に、また本当にどうでもいい話ですが、JR御茶ノ水駅のホームにはこんな邪魔な門がデ〜ンと乗っかっていて中央線の乗り換えに本当に邪魔ですよね。おまけに腰をかがめないとホームの反対側に行けない。「どおしてこんなモノ?」と思う方もいるでしょうが、これ聖橋の橋脚なんです。だから取っちゃうわけにはいかないんです。でもいいんじゃない。こんなのも面白いから。

 御茶ノ水、ブラタモリしませんか。
御茶ノ水駅橋脚
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飯田町が飯田橋に
船河原橋 船河原橋橋柱

 今回の「散歩」は飯田橋です。JR飯田橋駅東口を出ると目白通りが外堀を渡るところに橋が見えますが、駅舎側が「飯田橋」その隣、ピンクの欄干が施されているのは「船河原橋」です。目立ちませんが橋のたもとに表示されています。

袢纏に残る「飯田町」モデルは関口 飯田橋記念石柱

 昭和41年(1966)の住居表示変更までは「飯田町」でした。今では町会の名前にしか残っていません。靖国神社の御霊祭では「飯田町」の袢纏を見ることができます。
 駅名も元は「飯田町駅」でした。ここに最初に橋がかけられたのは明治14年(1881)。その時「飯田橋」と命名されました。

 徳川家康が江戸に入府した天正18年(1590)に、この辺りを視察した際の案内人が飯田喜兵衛であった所から、「飯田町」の地名が生まれました。しかしその後一帯が武家町になったため、正式な町名はなくなり、通称となりました。江戸末期の地図には「飯田町仲坂通り」の表示(下の地図の一番下)が見えます。これは今の九段坂北の「中坂」です。

江戸末期の飯田橋周辺地図

 上の地図の「江戸川」とあるのは今大久保通りになっています。外堀を隔てて右下へ伸びている広めの通りは現在目白通りです。「米倉丹後守」の上屋敷北側から牛込御門までが、今の「飯田橋駅」ですね。

 今の飯田橋2丁目の東側一帯は幕府の台所用人の組屋敷があって「御臺所町(おだいどころまち)」と呼ばれました。上の地図の下方右側にその表示が見えます。後(多分明治以後)「御」をとって「台所町」と称したと思われます。その石塔が飯田橋1丁目交差点あたりに立っています。

 また上の地図に「松平讃岐守」の広大な屋敷が見えますが、右が■印の中屋敷、左は無印ですが上屋敷です。高松藩主の屋敷で、御三家・御三卿に次ぐ「御家門」で、家紋が三葉葵(徳川葵)で、徳川家をはばかってこの地図には家紋が表示されていません(家紋は「上屋敷」を意味する)。

台所町跡石柱
高松藩上屋敷内庭石

 これは今のメトロポリタン・エドモントホテルと東京仕事センター付近です。この辺りを工事した際に、高松藩上屋敷の庭に使われていた石垣などがたくさん出土しました。その石垣がそのままの形で、復元されて保存されています。ちょうど仕事センターの裏側の「アイガーデンテラス」の中にあります。
 徳川幕府が江戸の町を作りかえる以前に平川が流れていたことを示す「平川の径」という石碑も置かれています。
 開発ばかりではなく、こういう江戸・東京の良さを残してあるのは良いものですね。

 ところで、エドモントホテルの裏に鉄道のレールが残されているって、知ってました?これ、最初の「飯田町駅」後の「JR貨物飯田町駅」の名残なんです。

 実は最初にできた「飯田町駅」は今の飯田橋駅の場所ではなく、ここだったんです。目白通り側に石柱が立てられています。
 明治39年(1906)10月に国有鉄道に変わるまで、甲武鉄道のターミナル駅でした。明治28年(1895)に牛込−飯田町間をつなげて、新宿を経由して八王子まで営業しました。
 その後万世橋・御茶ノ水まで延伸しましたが、昭和3年(1928)に牛込駅と統合した「飯田橋駅」が開業し、元の「飯田町駅」は国鉄・JRの貨物駅として平成11年(1999)に廃止されるまで営業していました。

甲武鉄道飯田町駅跡石柱 元「飯田町駅」名残のレール




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