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勇會は、東京都千代田区鎌倉町(現在の内神田1〜3丁目の一部)を拠点に活動している江戸神輿同好会です。昭和50年(1975)9月に神田界隈に住んでいた20歳代の若者約20人で発会しました。当初の会員の幾人かが他界し、また仕事の関係で活動ができなくなりましたが、新たな会員(若い者ばかりではありませんが)が参加して元気に活動を続けています。 勇會の本来の持ち場は何と言っても神田祭です。この祭礼の伝統を受け継ぎ、鎌倉町の大神輿の立派な宮入を果たすことが、勇會の最も大きな役割です。 また神田祭以外にも、日枝神社、浅草神社(三社)、波除稲荷、亀戸天神、牛嶋神社、富岡八幡宮、深川神明宮、芝神明宮、北澤 勇會は江戸の町火消の伝統を受け継ぐ「一番よ組」の頭から、「五分田(ごぶた)」の半纏を用いることと、半纏の背中に「勇」の印を入れることを許されました。「神田の田の字に力を付けて、粋な男と呼ばれたい」なんて台詞(都々逸でしょうか)がございますが、私たちは五分田の半纏の柄に勇を背負った半纏を誇りにして神輿を粋に担ぎ、常に礼節を重んじ、町会をはじめ多くの方々に愛され続けたいと思っています。 |
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| 勇會初代会長 | 元千代田区議会議員 |
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私が18歳の時、初めて鎌倉町の大神輿を担ぎ宮入をしたことが切っ掛けで、以来45年間神輿との付き合いが続いています。最初は、祭があると聞けば何処でも出かけて神輿を担ぎ肩を作り、夕方銭湯で神輿ダコを見せ合って自慢したものです。 20代の頃、神田祭で神輿会(町会以外の同好会)の人たちが我が物顔で町会神輿を担ぐ姿が目に付きました。酒を飲み娘をからかうなど、いろいろと地元町会との揉め事や喧嘩沙汰などが起こるようになり、このことが引き金になって、内神田5町会の青年有志が中心となって「神田勇會」を立ち上げ、発会の運びとなったと記憶しています。 敢えて言うなら、担ぎ屋は「縁の下の力持ち」に徹するべきだと考えます。天下祭は私たちにとっては地元の祭礼ですから別ですが、他所で担ぐ時は常に後を担ぎます。町会の許しがあれば会員が肩を並べて一本棒を取って江戸前の粋な担ぎを披露する、このことが町会と神輿会とが永くお付き合いをできる要因だと思います。黒子に徹する!しかし祭は楽しい。今でもお囃子が聞こえて神輿を見ると、気が高ぶり鳥肌が立ちます。 こんな勇會の気質と粋を今後とも多くの方に愛していただき、お引き立ていただくよう、心からお願い申し上げます。 |
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顧問 |
相談役 | 相談役 | ||||
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| 一番よ組の頭。勇會発会にあたって顧問となっていただきました。代々頭のお住まいが紺屋町3丁目(現在の岩本町2丁目辺り)にあったことから、頭の皆さん方からは「紺三(こんさん)」と愛称さえれています。 | 勇會発会から30年間会長を務めました。また神田神社の宮鍵としても奉仕しております。また千代田区議会議員を3期12年務めました。 勇會の発会30年を前に会長職を後進に譲りましたが、今も元気いっぱいで担ぎます。 |
勇會発会当時からの副会長です。久門と同様に発会30年を目前にして副会長を後進に譲りました。 神田に明治5年から続く老舗(初代は猿楽町に出店)の蕎麦屋「浅野屋」4代目当主です。もちろん浅野屋は木鉢会です。 |
| 平成23年総会で、役員人事を一部変更しました。樋口高志が営業多忙のため会長を退き、後任に村中哲也が会長に就きました。その他副会長に五十嵐謙一(再任)、針生基(新任)、会計に星野弘(再任)がそれぞれあたります。これまでと変わらずよろしくお願い致します。 |
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| 会長 | 副会長 | 副会長 | 会計 | |
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| 笠井・武田が退会 |
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笠井正一君と武田剛君が、本年(平成23年)3月末を以て退会しました。 2人は、日本航空の協力会社で日東航空整備株式会社に勤務しておりましたが、日本航空の経営破たんに伴う再建策の一環で保有機種を整理したために、日東航空整備が重整備を請け負っていた飛行機が退役し、受注が激減したとのことから会社を解散することになってしまいました。 |
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針生基会員が神田に「酔処 基酔(きすい)」というお店を開店しました。下に案内図を掲載しました。 わずか17席の小さい店ですが、どれもなかなか美味しいですよ。お昼ごはんもやってますから、どうかお寄りください。 |
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勇會の顧問をお引き受けいただいている西出幸二さんは、「一番よ組」の頭(かしら)です。「よ組」は江戸時代に活躍した町火消の一つです。享保7年(1721)8月の記録によると、鎌倉町、永富町、鍛冶町、多町、大工町、白壁町、須田町、鍋町、紺屋町、小柳町、平永町、三河町の12か町が「よ組」の基本的な持ち場でした。火消人足が720人もおり、江戸最大の組でした。 頭の西出幸二さんは、神田消防団本部分団長で、第一区一番組の組頭でもあります。代々紺屋町3丁目(今の岩本町2丁目辺り)にお住まいがあったことから、頭仲間からは「紺三(こんさん)」と呼ばれています。頭は昭和21年(1946)に鳶の世界で働きはじめ、今日「紺三」を受け継いでおられます、神田神社の拝殿左右上の壁にある奉納額に「紺三」のお名前があります。機会がありましたらご覧ください。また、以前に日テレの「ぶらり途中下車」で紹介されましたから、ご存知の方もいらっしゃるでしょう。 |
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神田神社拝殿左の壁に掲げられる奉納額。額の最上部右端に「紺三」を見ることができます。町火消の纏も描かれていてなかなか粋です。外からはちょっと見にくいですが、機会があれば拝殿に入ってご覧ください。 | ![]() |
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右の錦絵は江戸町火消「一番よ組」の纏持ちを描いたものです(絵は明治時代のものかもしれません)。纏の最も上に据えられているシンボルのことを「陀志(だし)」と言うそうです(東京消防記念会のホームページから)。よ組の纏は神田の「田」の字をあしらって、一番組の「一」の字を書いています。その下に下がっている帯のようなものは「馬簾(ばれん)」と言って48枚からなる皮製の火の子払いに使うものです。現在の纏もこれと同じデザインです。4貫目と言いますから約15キログラムですね。 江戸の町火消は、享保3年(1718)に、8代将軍吉宗の命を受けた南町奉行大岡越前守忠相によって組織されました。享保5年(1710)には、江戸の町を各20か町単位に分けて、いろは・・・んまでの48組に分けた町火消が誕生しました(最初は「い」から「す」までの47組でした)。ただし「へ」ひ」「ら」「ん」は組の名前にならず、「百組」「千組」「万組」「本組」と呼び換えられました。「へ」は「屁」、「ひ」は「火」に通じて縁起が悪く、「ら」は隠語として忌みられ(品の良くない印象を与えるそうです。男性の性器を指すという解釈もあるそうです。そぉ言われてみれば・・・)、「ん」は語呂が悪いからでした。 その後48組の町火消は10の大組に再編され、「一番よ組」「二番め組」という呼び名で庶民に親しまれました。 |
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火消の人足には、足腰が強く高い所を怖がらない鳶が集められました。当初町火消は町屋の消火(破壊消防ですが)活動しか認められませんでしたが、延享4年(1747)の江戸城の火災にも出動してその功績を認められ、一躍その地位を不動のものにしました。鳶たちは総身に彫り物をして粋を重んじ、鎮火の後には木遣を唄いながら町内に引き上げました。沿道の若い女性は「ワーワー、キャーキャー」の騒ぎだったとか。もてたんですねー。 江戸以来の町火消の伝統は、江戸消防記念会に引き継がれています。ホームページは、http://www.edosyoubou.jp/ です。纏の紹介や木遣なども聞けて楽しいホームページですよ。 |