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かんだ 勇會家紋 勇會
神田勇會の歴史、顧問からご挨拶、会員紹介など 勇會発会から今日までの歩み
顧問の久門冶人からのご挨拶
勇會会員のご紹介
針生の出発
よ組・町火消


勇會発会の歴史と今
江戸開府400年記念行事で鎌倉町の神輿を担ぐ
江戸開府400年記念祭での勇會

 勇會は、東京都千代田区鎌倉町(現在の内神田1〜3丁目の一部)を拠点に活動している江戸神輿同好会です。昭和50年(1975)9月に神田界隈に住んでいた20歳代の若者約20人で発会しました。当初の会員の幾人かが他界し、また仕事の関係で活動ができなくなりましたが、新たな会員(若い者ばかりではありませんが)が参加して元気に活動を続けています。

 勇會の本来の持ち場は何と言っても神田祭です。この祭礼の伝統を受け継ぎ、鎌倉町の大神輿の立派な宮入を果たすことが、勇會の最も大きな役割です。

 また神田祭以外にも、日枝神社浅草神社(三社)、波除稲荷亀戸天神、牛嶋神社、富岡八幡宮、深川神明宮、芝神明宮、北澤さくら祭サンフランシスコ領事公邸で八幡、大原稲荷などいろいろな祭礼にも参加させていただいています。過去には幾度も海外へも出かけて、外国の方々に神輿を披露したこともございます(右はサンフランシスコさくら祭で領事公邸に招かれた時のもの)、。

勇會は江戸の町火消の伝統を受け継ぐ「一番よ組」の頭から、「五分田(ごぶた)」の半纏を用いることと、半纏の背中に「勇」の印を入れることを許されました。「神田の田の字に力を付けて、粋な男と呼ばれたい」なんて台詞(都々逸でしょうか)がございますが、私たちは五分田の半纏の柄に勇を背負った半纏を誇りにして神輿を粋に担ぎ、常に礼節を重んじ、町会をはじめ多くの方々に愛され続けたいと思っています。

サンフランシスコ市庁舎前で記念撮影
(上)サンフランシスコ市庁舎前にて(下)日本領事公邸にて
サンフランシスコ日本領事公邸で記念撮影
発会30年記念江戸扇子
勇會発会30年を記念して作成した江戸扇子
勇會会則
上の絵をクリックすると会則が読めます
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勇會からご挨拶 久門冶人(くもんはるひと) 勇會初代会長 元千代田区議会議員

 私が18歳の時、初めて鎌倉町の大神輿を担ぎ宮入をしたことが切っ掛けで、以来45年間神輿との付き合いが続いています。最初は、祭があると聞けば何処でも出かけて神輿を担ぎ肩を作り、夕方銭湯で神輿ダコを見せ合って自慢したものです。

 20代の頃、神田祭で神輿会(町会以外の同好会)の人たちが我が物顔で町会神輿を担ぐ姿が目に付きました。酒を飲み娘をからかうなど、いろいろと地元町会との揉め事や喧嘩沙汰などが起こるようになり、このことが引き金になって、内神田5町会の青年有志が中心となって「神田勇會」を立ち上げ、発会の運びとなったと記憶しています。

 敢えて言うなら、担ぎ屋は「縁の下の力持ち」に徹するべきだと考えます。天下祭は私たちにとっては地元の祭礼ですから別ですが、他所で担ぐ時は常に後を担ぎます。町会の許しがあれば会員が肩を並べて一本棒を取って江戸前の粋な担ぎを披露する、このことが町会と神輿会とが永くお付き合いをできる要因だと思います。黒子に徹する!しかし祭は楽しい。今でもお囃子が聞こえて神輿を見ると、気が高ぶり鳥肌が立ちます。

 こんな勇會の気質と粋を今後とも多くの方に愛していただき、お引き立ていただくよう、心からお願い申し上げます。

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会員のご紹介

顧問、西出幸二さん(よ組の頭) 相談役・久門冶人 相談役・和久井喜治郎

顧問

相談役 相談役

西出幸二(にしでこうじ)

久門冶人(くもんはるひと)

和久井喜治郎(わくいきじろう)

一番よ組の頭。勇會発会にあたって顧問となっていただきました。代々頭のお住まいが紺屋町3丁目(現在の岩本町2丁目辺り)にあったことから、頭の皆さん方からは「紺三(こんさん)」と愛称さえれています。 勇會発会から30年間会長を務めました。また神田神社の宮鍵としても奉仕しております。また千代田区議会議員を3期12年務めました。
勇會の発会30年を前に会長職を後進に譲りましたが、今も元気いっぱいで担ぎます。
勇會発会当時からの副会長です。久門と同様に発会30年を目前にして副会長を後進に譲りました。
神田に明治5年から続く老舗(初代は猿楽町に出店)の蕎麦屋「浅野屋」4代目当主です。もちろん浅野屋は木鉢会です。


平成23年総会で、役員人事を一部変更しました。樋口高志が営業多忙のため会長を退き、後任に村中哲也が会長に就きました。その他副会長に五十嵐謙一(再任)、針生基(新任)、会計に星野弘(再任)がそれぞれあたります。これまでと変わらずよろしくお願い致します。
副会長・村中哲也 副会長・五十嵐謙一 針生基 会計・星野弘 会長・樋口高志
村中哲也(むらなかてつや) 五十嵐謙一(いがらしけんいち) 針生基(はりうもと) 星野弘(ほしのひろし) 樋口高志(ひぐちたかし)
会長 副会長 副会長 会計
中里孝雄 山田光生 斉藤光枝 米澤洋子 亀山賢司
中里孝雄(なかさとたかお) 山田光生(やまだみつお) 斉藤光枝(さいとうみつえ) 米澤洋子(よねざわひろこ) 亀山賢司(かめやまけんじ)
関口保 藤沢仁 神田早浪
関口保(せきぐちたもつ) 藤沢仁(ふじさわひとし) 神田早浪(かんださなみ)
鈴木圭子 小林直美 村田一祐 稲川良治 堀幸一
鈴木圭子(すずきけいこ) 小林直美(こばやしなおみ) 村田一祐(むらたかずまさ) 稲川良治(いながわりょうじ) 堀幸一(ほりこういち)
五十嵐清史 五十嵐裕子 今斉 小林奈津子 木村幸恵
五十嵐清史(いがらしきよふみ) 五十嵐裕子(いがらしゆうこ) 今斉(こんひとし) 小林奈津子(こばやしなつこ) 木村幸恵(きむらさちえ)
菅沼岳哉 久保田真理子
菅沼岳哉(すがぬまたけや) 菅沼真理子(すがぬままりこ)
笠井・武田が退会

 笠井正一君と武田剛君が、本年(平成23年)3月末を以て退会しました。

 2人は、日本航空の協力会社で日東航空整備株式会社に勤務しておりましたが、日本航空の経営破たんに伴う再建策の一環で保有機種を整理したために、日東航空整備が重整備を請け負っていた飛行機が退役し、受注が激減したとのことから会社を解散することになってしまいました。
 笠井正一はスカイマークエアラインへ、武田剛はスターフライヤーへ再就職が決まりましたが、生活環境などが一変しますので、このたび退会を決意しました。大変残念なことですが、元気に仕事に励むよう祈ります。

笠井正一
笠井正一君
武田剛
武田剛君
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針生の出発

 針生基会員が神田に「酔処 基酔(きすい)」というお店を開店しました。下に案内図を掲載しました。

 わずか17席の小さい店ですが、どれもなかなか美味しいですよ。お昼ごはんもやってますから、どうかお寄りください。

須田町に開店した基酔 基酔之厨房に立つ針生
地図 まぐろ刺身
まぐろ刺身
さより刺身
さより刺身(骨・皮焼付)
肉じゃが
定番の肉じゃが
下仁田ネギ
焼きが旨い下仁田ネギ
スジ煮込み
スジ煮込み
玉子焼き
玉子焼き
丸干しししゃも焼き
絶品丸干しししゃも焼き
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よ組や江戸の町火消について
一番組組頭西出幸二さん

 勇會の顧問をお引き受けいただいている西出幸二さんは、「一番よ組」の頭(かしら)です。「よ組」は江戸時代に活躍した町火消の一つです。享保7年(1721)8月の記録によると、鎌倉町、永富町、鍛冶町、多町、大工町、白壁町、須田町、鍋町、紺屋町、小柳町、平永町、三河町の12か町が「よ組」の基本的な持ち場でした。火消人足が720人もおり、江戸最大の組でした。

 頭の西出幸二さんは、神田消防団本部分団長で、第一区一番組の組頭でもあります。代々紺屋町3丁目(今の岩本町2丁目辺り)にお住まいがあったことから、頭仲間からは「紺三(こんさん)」と呼ばれています。頭は昭和21年(1946)に鳶の世界で働きはじめ、今日「紺三」を受け継いでおられます、神田神社の拝殿左右上の壁にある奉納額に「紺三」のお名前があります。機会がありましたらご覧ください。また、以前に日テレの「ぶらり途中下車」で紹介されましたから、ご存知の方もいらっしゃるでしょう。

頭の半纏の背中

よ組の頭、西出幸二さん

頭の半纏は「一番組」の「一番」が染め抜かれています。粋なものです

よ組の半纏  神田神社拝殿左の壁に掲げられる奉納額。額の最上部右端に「紺三」を見ることができます。町火消の纏も描かれていてなかなか粋です。外からはちょっと見にくいですが、機会があれば拝殿に入ってご覧ください。 神田神社拝殿の奉納額

よ組の半纏。

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町火消って?

 右の錦絵は江戸町火消「一番よ組」の纏持ちを描いたものです(絵は明治時代のものかもしれません)。纏の最も上に据えられているシンボルのことを「陀志(だし)」と言うそうです(東京消防記念会のホームページから)。よ組の纏は神田の「田」の字をあしらって、一番組の「一」の字を書いています。その下に下がっている帯のようなものは「馬簾(ばれん)」と言って48枚からなる皮製の火の子払いに使うものです。現在の纏もこれと同じデザインです。4貫目と言いますから約15キログラムですね。

 江戸の町火消は、享保3年(1718)に、8代将軍吉宗の命を受けた南町奉行大岡越前守忠相によって組織されました。享保5年(1710)には、江戸の町を各20か町単位に分けて、いろは・・・んまでの48組に分けた町火消が誕生しました(最初は「い」から「す」までの47組でした)。ただし「へ」ひ」「ら」「ん」は組の名前にならず、「百組」「千組」「万組」「本組」と呼び換えられました。「へ」は「屁」、「ひ」は「火」に通じて縁起が悪く、「ら」は隠語として忌みられ(品の良くない印象を与えるそうです。男性の性器を指すという解釈もあるそうです。そぉ言われてみれば・・・)、「ん」は語呂が悪いからでした。

 その後48組の町火消は10の大組に再編され、「一番よ組」「二番め組」という呼び名で庶民に親しまれました。

錦絵、よ組の纏持ち
錦絵に描かれた火消の絵
町火消の人気を窺わせる役者絵。市川久蔵(左)と団十郎(右)

 火消の人足には、足腰が強く高い所を怖がらない鳶が集められました。当初町火消は町屋の消火(破壊消防ですが)活動しか認められませんでしたが、延享4年(1747)の江戸城の火災にも出動してその功績を認められ、一躍その地位を不動のものにしました。鳶たちは総身に彫り物をして粋を重んじ、鎮火の後には木遣を唄いながら町内に引き上げました。沿道の若い女性は「ワーワー、キャーキャー」の騒ぎだったとか。もてたんですねー。

 江戸以来の町火消の伝統は、江戸消防記念会に引き継がれています。ホームページは、http://www.edosyoubou.jp/ です。纏の紹介や木遣なども聞けて楽しいホームページですよ。





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