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平成23年の神田祭は中止 |
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神田祭は、2年に1度5月の第2日曜をはさんで、約1週間にわたって行われる祭礼です。日本三大祭、江戸三大祭に数えられています。 神田祭は、江戸総鎮守である神田神社の祭礼で、赤坂にある日枝神社(山王権現)の祭礼と隔年で行われますが、共に江戸城に入城し将軍の上覧に供した「天下祭」です。江戸に幕府が開かれて以来、江戸城入城を許された祭礼は、神田祭と日枝神社の山王祭、根津神社の祭礼以外にはありません。根津権現の祭礼は正徳4年(1714)に初めて江戸城へ入城しましたが、その後は入城していません。 神田祭も時代によっていろいろと様変わりしてきました。元和年間(1615〜24、3代将軍家光の御世)中期までは船渡御(ふなとぎょ)でした。延宝年間(1673〜81、4代将軍家綱の御世)中期までは毎年行われていましたが、以降は山王祭と隔年の祭礼となり、神田祭は9月15日に行われるようになりました。 |
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神田祭が当初9月15日に執り行われたのは、関が原の合戦で徳川家康が勝利を収めた日にちなんでいます(詳しくはこのページの「江戸総鎮守神田明神」をご覧ください)。このような由来から、神田祭は神社と共に江戸幕府の庇護を受けて、城中で将軍や御台所(みだいどころ)の上覧を受けていました。このことから江戸の人たちは神田祭を「天下祭」と呼ぶようになったそうです。祭礼は神社の2基の神輿を先頭に、36本もの山車(だし)や付祭(つけまつり)を従えた大行列だったことが、当時の錦絵などでも分かります(神田神社のホームページのトップでその錦絵を見ることができます)。神田祭の大行列は田安門から入城し、呉服橋御門から退出、その後町を練り歩きました。 その後祭礼は震災や戦災などによる紆余曲折を経て、終戦後の昭和27年(1952)に氏子町会の町神輿の連合渡御(れんごうとぎょ)が行われるという、今日の祭礼のような形で復活しました。 |
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往時の神田祭の様子を忍べるものは錦絵や版本ぐらいしかないのですが、いろいろな文献などにも基づいてジオラマのようなものが江戸東京博物館(墨田区横網)に展示されています。ガラスケースに入っているのであまりきれいには撮れませんでした。 明治になって電車が走るようになり、また電気が使われるようになって町中に電線が張り巡らされたために、山車による巡行がとてもやりにくくなってしまい、確か明治22年の帝国憲法発布の記念行事を最後に山車の渡御は取りやめになりました(江戸時代には幕府が祭礼の費用のかなりの部分を負担していたのに対して、明治政府はそのような費用を出さなかった事も大きく影響したはずです)。関東大震災・戦争などを経験して、終戦後に神輿主体の連合渡御に代わりました。 今日では、神田神社の氏子108か町大小合わせて約200基余の山車や神輿が宮入りするという、東京屈指の名物祭礼に発展しています。江戸の伝統を受け継ぐ天下祭・神田祭を、皆さんも一度はご覧になりませんか。 |
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神輿(みこし)とは、簡単に言えば「神の乗り物」ということです。そもそも「輿(こし)」とは、板を置いた台を2〜4本の棒で担ぐ乗り物のことを意味しています。これに尊い神がお乗りになる時に、敬意を払って「神輿」と言います。ですから「お神輿」という言い方は少しオカシイのです。 神社の祭礼で担がれる神輿には、産土神(うぶすながみ)が遷座しておられるのです。普段は神社の神殿の中におられるのですが、祭礼の時に宮司の祝詞に答えて神社神輿にお移りになられるのです。町神輿はその分身をお借りするために「御霊入れ(みたまい 神輿には氏神様がお乗りになっているのですから、その上に足を置いて乗るなどというのは甚だ無礼。罰当たりなのです(神輿に乗ることが許されるのは本来頭だけです)。神輿を担ぐのはあくまでも「神事」なのだということを忘れず大切にしたいものです。 |
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半纏は一般に、職人などが羽織る上着のことを指します。羽織を実用的に簡素化したものがルーツです。今日では「法被(はっぴ)」と同義語で使用されますが、法被(半布と書く場合もあるようです)はその文字が示しているように、「禅宗で椅子を覆い包む布」がルーツだという説があります。他方半纏は「羽織の半分の長さしかない」から名づけられた実用着であるという説が有力のようです。 神輿を担ぐ時に着用する半纏は、「印半纏(しるしばんてん)」とも言い、職人や商家に働く人が、その職人の座名や商店名などが遠目にもひと目で判別できるように、屋号や商標などを背中に大きく染め抜いたものがルーツです。 |
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勇會の半纏は「五分田(ごぶた)」の柄に、「勇」の文字を染め抜いたもので、襟には「神田」と書かれています。 「五分田」は左の写真の柄ですが、神田の「田」の字をあしらったもので、頭の許しを得ずに勝手に使用することは許されません。「勇」の文字も、火消や鳶の「勇み肌」を意味しており、これも勝手に染めることは許されません。 勇會は、よ組の頭西出幸二さん(勇會顧問)から、「五分田」と「勇」を使用することを許され、この半纏と、神田を地元に活動することを誇りにしている担ぎ屋集団です。 |
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| 本来神輿を担ぐ装束は、袢纏の下には白のシャツと半ダコ(または締め込み)に白の地下足袋が好ましいのですが、鳶のような装束をことさら好む人や、女性の多くが好みますので、ここに紹介します。参考にしてください。 |
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| まず長股引を履きましょう。簡単ですが、お尻と前のイチモツをきちんとしっかりくるむことがコツです。そうしないと、歩いたり担いだりしているうちにお尻あたりが緩んできます。みっともないですヨ。腹巻はつけた方がいいです。紐もしっかり結べます。 長股引の裾は足首の上の方でとどまる姿が良いと思います。足首の処で蛇腹のようにダブ付くのは「小田原提灯」と言って恰好のいいもんじゃぁありません。半股引(ハンダコ)の履き方も全く同じです。 |
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| 次に腹掛け(ドンブリとも言います)を付けます。何ということもないのですが、手間取っている人や間違っている人も見かけるものですから。腹掛けの首繰りは喉の下にぴったりはまるように紐の長さを調節してください。首繰りにたるみがあるのはあまり恰好よくありません。 |
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| さて帯の結び方です。帯の結び方は一通りではありませんから、これでなくてはならんというものじゃありません。ここではいわゆる「オッ立ち結び」をやってみます。写真は袢纏の右の身ごろが内に入りすぎています。襟の文字が左右両方見えるように袢纏をまっすぐに着るようにしてください。帯の位置も様々ですが、私たちはちょうど臍の位置で巻くのがきれいだと考えています。 |
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| @結びを作る長さを確保して帯を臍の上に捲き始める。 | A一重巻けば下になった帯が固定されます。両手で帯を持たなくても平気 | B二重目を巻いたら、やや強めに帯を引いて締めます。 |
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| C下になった帯を前へ持ってきて上に上げます | Dその帯端を帯全体の内側に捲いて下へ出していったん締めます | E適当なところで折って帯端を上に向けます |
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| F帯端を折った位置がずれないようにしっかり押さえます | G反対側(上側)の帯端を折上げた帯端の下の折り目に交差させます | H交差させた帯端を折上げた帯の下の部分の後ろに回します |
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| Iその帯端を交差させた帯の内側に入れて上に引きます | J折りの部分に片手の指を入れて帯端を引きながら結びを締めます | K結び目が締まったら帯の形を整えて出来上がり |
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| 最後は草鞋の作り方と履き方です。草鞋もいろいろです。麻の入った丈夫なものから、最近ではビニールの紐で作ったものまであるようです。作り方、履き方もいくつかあるようですが、ここでは「早掛け(チョン掛けとも)」をご紹介します。安定感に少し欠けますが、上手に結べば足元がすっきり見えて粋ではないかと思うからです。 |
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| これが草鞋です。売っているのはこの状態です。左上が踵(かかと)になる部分、右下がつま先側。先についている紐が鼻緒になる部分です。 | @まず鼻緒の部分を二度ほど撚ります。この部分と爪先部分は切れやすいので、粘着テープで補強する方もいらっしゃいます |
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| A草鞋の両側に張出した前方の輪にくぐらせます |
B両方の鼻緒紐を同じように前方の輪に通します | C踵側の二つ折りの紐を後方の輪に通します |
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| D踵側の二つ折りの紐を両方共輪に通します | E前方の輪を通した鼻緒紐は草鞋の中央で交差させます |
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| F草鞋掛けを履いて草鞋を爪先にかけて鼻緒紐を後ろに引いて緒を締めます | G鼻緒紐の両側を引きながら足の甲へ持ってきます | H両方の紐を甲でつかんで足の外側の紐を踵へ持っていきます |
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| I草鞋の踵の紐に写真のようにしっかり引っかけながら足を一周して前に引きます | J足の甲まで紐を持ってきたら輪になっていない方2本の適当な位置で結び球を作ります | K結び球を作ったら余った紐を適当な長さの処で切ります。結び球は心持ち足の内側に作った方が良い |
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| L輪になっている方を結び球にひっかけます。 | Mこんな風になります。輪になっている方を1回ねじると外れにくい | Nつま先側の鼻緒紐の両側を前方に引いて足首と踵の結びを強くします |
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| O出来上がりました。前方の鼻緒がゆるくても外れません |
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今日では私たち日本人にとても身近になっている神社ですが、正しい参拝をしている人は割合少ないようです。最近では手水舎に禊(みそぎ)のしかたを絵で説明している所や、参拝のしかたについて説明板を置いている神社があるようです。 参拝の儀礼というものは、大昔から決まっていたものではありませんが、長い年月を経て一つの形が出来上がりました。鳥居下をくぐるところから正式な儀礼で参拝したいものです。 |
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まず第一 鳥居をくぐるということは、氏神様の居られる神域に入ることを意味します。奥に見えるのは随神門。写真では見えませんがその奥が御神殿です。この間の中心線を「正中(せいちゅう)」と言います。神様がお通りになる通路です。一般参拝者はこの正中を避けて御神殿まで歩くのが礼儀です。 |
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第二 正中をはずして鳥居下に立ち、軽く一礼をして鳥居をくぐります。 |
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第三 この随神門外側には「四神(しじん)」が彫られ、内側には「因幡の白兎」が彫られています。 |
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第四 まず、左手に水をかけ流します。 |
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第五 ちなみに、全体を御神殿と言っておりますが、実はこの手前の建物は「拝殿」。「神殿(本殿とも)」は氏神様が居られる場所であって、一番奥に建っていて、神職以外は入ることができません。拝殿と神殿の間に「弊殿」が設けられている建て方もあります。神田明神は拝殿、幣殿、神殿(本殿)が一体の建て方になっています。 |
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第六 次に「二礼(拝)、ニ拍、一礼(拝)」で参拝します。その際に、 |
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第七 |
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勇會の活動拠点は神田鎌倉町です。昭和41年(1966)の住居表示変更で内神田1丁目から3丁目に改称されました(残念なことです)。 「鎌倉」の由来は、木材の出荷元が鎌倉の材木座であったからとも、石を荷揚げした人足や石工に鎌倉出身者が多かったからとも言われています。 また鎌倉町には、家康入府以前の古くからある「御宿(おんやど)稲荷」と「出世不動尊」があります。御宿稲荷は、家康が江戸に初めて到着した時に、一夜を過ごした屋敷に祀ってあった祠が由来。出世不動尊は一橋徳川家の表鬼門に位置する厄除けとして尊崇されたものです。 |
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上の写真は鎌倉町の神輿です。鎌倉町の神輿は昭和38年(1963)宮本重義氏の作です。本体は約850キログラムあるといわれています。そうすると棒を入れた総重量は900キログラムほどにもなりましょうか。 右の鎌倉町の半纏は、深緑一色で柄は入っていません。背中の大紋は「鎌倉町」と書かれています。こうしたデザインを「虫食い」と言います。襟には持ち主の名前が染められており「名入り半纏」と言われるものです。町会が貸し出す貸半纏の襟には「かまくら町」と書かれており、背中の印も「虫食い」とは違うデザインで「鎌倉」と書かれています。神社への宮入で神輿を担ぐには名入り半纏が必要です。 勇會の会員は全員名入り半纏を持っており、町会の一員として鎌倉町の大神輿の立派な宮入のためにがんばっています。 |
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9月29日(土曜日)、第三回江戸天下祭の大イベントが日比谷公園をメイン会場に催され、午後4時から木遣や手古舞の先導で14台の山車と9基の神輿が丸の内仲通り、行幸通りまで巡行しました。 もともとこのイベントは2003年に江戸開府400年を記念して、江戸時代の天下祭「神田祭」の江戸城入城巡行の模様の一端を再現しようという趣旨から企画されました。その後2年ごとに行なわれ今年が第3回目。特に今年は、江戸城築城550年、朝鮮通信使来府400年を記念して行なわれました。巡行には先導、民謡流し踊りに続いて朝鮮通信使一行が巡行し、その後に14台の山車と9基の神輿が続きます。 江戸時代の神田祭の出し物は山車が主役でした。これらの山車の頂点に飾られた人形はカラクリになっていて、田安門をくぐる時は台の中に引っ込むように作られていました。 |
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しかし明治に入って電車が都内を走るようになると電線が邪魔になって、明治22年(1889)憲法発布を記念して山車100台が皇居前に集結したのを最後に山車の巡行は行なわれなくなりました。 神田の山車の多くは、地方に売却・譲渡され、松枝町など一部を除いてほとんどが残っていません。そこで、川越や飯能、桐生、石岡、本庄、成田などからはるばる山車を運んでいただいて、往時の雰囲気をいくらかでも再現しようとご協力をいただいているのです。 今年はまた朝鮮通信使来府400年を記念して通信使の大行列が巡行しました。豊臣秀吉が朝鮮半島に軍を送って以降朝鮮との交流が途絶えていたところ、徳川家康は慶長12年(1607)に朝鮮との関係正常化を実現したのです。通信使は文化8年(1811)に廃止されるまでの205年間に12回も江戸を訪れています。漢城(今のソウル)から江戸まで約2千キロメートルを400〜500人の使節が往復したのです。通信とは「信(よしみ)を交わす」という意味です。 |
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この日は曇り空で時々小雨が降る陽気でした。おまけにメイン会場の日比谷公園出発が16時です。木遣、手古舞などの先導のあとに民謡流し踊り、その後に朝鮮通信使、山車はその後に14台が巡行し、神輿の渡御は最後です。クライマックスの行列が通る頃は日もとっぷり暮れてしまい、おまけに小雨で寒いとあって、丸の内仲通りの半分くらいは見物人がほとんどいなくなってしまいました。ザンネンなことです。 暗い上に雨をよけるために多くの山車がビニールを被ってしまい、あまり鮮明な写真を撮れませんでした。 しかし、このイベントのために日比谷公園では25日ごろから山車を展示するお仮屋造りなどの作業が始められました。そこには勇會の顧問であるよ組の頭の姿が。本当にご苦労様です。 |
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また大手町の丸ビル1階には山車の人形や神輿が展示されました。 |
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上の写真右から2番目の源頼義の人形は、安房鴨川の諏訪講の山車の上に乗っているものです。今年の神田祭では鍛冶町2丁目の神酒所に展示されていました。元々この人形を乗せた山車は神田にあって、36番目の山車として江戸城に入城していたのです。明治期になって山車の巡行を廃止した際の明治43年(1910)に山車が、大正中期(関東大震災のあった1923年以前)に人形が、鴨川市の諏訪神社に売却されたのです。今年の神田祭で約90年ぶりに神田に戻ったのですが、そんなゆかりもあって今度は天下祭で展示されていました。 |
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5月11日(日曜)、神田蔭祭(かげまつり)が盛大に行なわれました。赤坂にある日枝神社の例大祭(山王祭)と神田祭は隔年交替で行なわれることになっていますので、今年は神田祭はございません。蔭祭なんですが、平成16年(2004)の蔭の年に神社の大神輿の渡御を行なって、今年3回目になります。 今年は日本橋地区の渡御で、朝9時に両国旧御仮屋(日本橋中学校付近)から神輿が出発し、5つの地区に分けて大神輿が賑やかに渡御を行ないました。この大神輿は平成12年(2000)に水天宮から奉献されたもので、大きさもさることながら、大変きらびやかです。写真では分かりにくいかもしれませんが、鳳凰は七宝のような極彩色が施されたたいそう立派なのもです(下の写真をご覧ください)。 私たちは、い組の御世話で室町4丁目の半纏をお借りして日本橋中央通(一の部)の渡御に参加させていただきました。写真に写っている半纏の背中に「むろ町四」と印が入っているの、分かりますか?かろうじて華棒に肩を入れている勇會の会員が確認できます。 |
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大神輿の発進は15時過ぎに日本橋北詰から。ここは江戸時代には魚河岸があって、徳川家と江戸在住の武士や町人が食べる魚介類を水揚げ・卸売り・小売などがされた日本一の魚市場でした。芝居町、吉原遊郭と並んで「日に千両が落ちる」と言われました。 右の写真は室町3丁目交差点からの渡御で、先頭は当会きっての両肩自慢の山田光生です。その後ろは客人の三浦君(昨年神田祭に参加しました) この機会に日本橋周辺のご案内をいたしましょう。 |
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日本橋は江戸幕府が開かれた慶長8年(1603)に架けられ、翌年に東海道など5街道の基点と定められました。ですから左のような「日本国道路元標」が橋の中心に置かれています。ここが「中央区日本橋室町1丁目1番地」。普段はこんなものを見ることは出来ませんが、レプリカが橋のたもとに展示されています。 中央通を北に進んで最初の路地を右に行くと「按針通り」です。慶長5年(1600)に漂着した来日最初の英国人ウィリアム・アダムス(日本名三浦按針)の宅地があったところ。日本橋室町1丁目10−9に右のような石碑があります。 |
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日本橋と言えば「三越」。江戸時代にこの辺りに店舗を構えた「三井越後屋」という呉服屋さんが元祖です。三井の「三」と越後屋の「越」を文字って「三越」なのです。伊勢松坂出身の三井高利が延宝元年(1673)に呉服の現金販売を営む店(江戸店えどだな)を開きました(生地を仕入れる本店は京都)。三井は後に両替も商うほどの大店(おおだな)になって今日の三越デパートになったのです。ついでのことながら、最近三越と合併して話題になっている伊勢丹も元は神田にあった呉服商です。 さて中央通と江戸通り室町3丁目交差点の辺りには長崎屋という薬種屋がありました。長崎屋は長崎出島のオランダ商館長が将軍拝謁のために江戸に来た時の定宿になっていたところです。商館長に随行した人の中にはシーボルトのような一流の医学者もいて、蘭学に関心の高かった平賀源内なども長崎屋を訪れて西洋文明を吸収したのです。その成果が「解体新書」にも現れています。 このように日本橋地域は、江戸時代には進んだ文明にゆかりが深いところなのです。日本橋の上の高速道路を移設する話があるとかないとか。高速道路なんてない方がイイですよね〜。明治・大正時代の日本橋は右の絵(実は版画)のように美しかったんです。これは川瀬巴水(はすい1883〜1957)という著名な版画家の有名な作品です。 |
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神田蔭祭に先立つ9日(金曜日)の午後7時から、神田明神で遷座祭がおごそかに執り行われました。これは神社の奥(神殿)にいらっしゃる祭神を、神輿に一時的お移しする儀式で、祭礼にはとても大切な儀式です。 |
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室町4丁目町会の最初の受け持ち棒は右の華棒です。すかさず星野弘(写真左)が入っています。客人の堀クンも(写真中央)楽しんでいるし、鈴木圭子さんもいい所をしっかり取っています。 |
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星野はテンション高い(右華で) |
稲川良治が華(日本橋上) |
稲川ファミリー。ゴクローさん |
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奥さんは久門相談役のご長女 |
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| お待たせしました。まだ全部出来上がってはいませんが、取り急ぎアップしました。スライドショーへはこちらからご入場を。 |
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さあ、神田祭の季節が近づいてきました。ポスター(写真左)が出来上がりました。今年のは上部に3基の鳳輦、右の方に宮鍵の久門相談役の横顔が見えます。下段は将門神輿です。 神田祭は京都の祇園祭、大阪の天神祭とともに「日本三大祭」の一つ。また日枝神社の山王祭、富岡八幡のいわゆる深川祭、と並ぶ江戸三大祭。そして何と言っても江戸城入場が許された天下祭りです。 |
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4月4日、内神田鎌倉町会の袢纏合せが行われました。神田祭を滞りなく進行するために、例年ご協力いただいている同好会に集まってもらって、日程と注意事項などが伝えられ、合わせて懇親を深める大切な儀式です。 すでに大小神輿は例年通り町会に飾られています。今年の鎌倉町宮入は駒札「三番」です。順調にいけば(いかないことが多いけど)14時前には宮入です。美しい宮入ができれば良いですね。 |
内神田鎌倉町会祭礼日程 |
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5月7日午後7時から神田神社で遷座祭が催されました。前にも同じご紹介をいたしましたが、改めて写真を付けてご紹介します。 神田神社に鎮座される3体の御祭神を、翌日の神幸祭で巡行する3基の鳳輦と大神輿に遷座していただく儀式です。明神会館から神職が白装束で拝殿へ向かい、その後ろから氏子町会各地域の総代が続き、宮鍵講や御防講などと共に拝殿でお祓いを受けます。 |
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翌5月8日午後3時から、尾島公園の神酒所に置かれた鎌倉町の神輿に御祭神を移す遷座式(御霊入れとも言います)が厳かに執り行われます。勇會会員も6名参加しました。神田神社の清水禰宜様が「ウォ〜」という声を発しながら無事に遷座が終了、一同お祓いを受けて鏡割りをいたしました。 小雨が降る中ではありましたが、皆様ご苦労様でした。 |
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遷座式が終わると夕刻からは鎌倉町内の渡御です。大小の神輿に遷座された御祭神を担いで町内を回ります。これによって町内に福を授け、すべての住民を清めるのです。 陽が落ちてからは少し雨も激しくなりましたが、無事に渡御が終わりました。 |
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9日(土曜日)は神幸祭です。3基の鳳輦を中心に氏子109ヵ町を巡行します。鳳輦の出発にあたり朝8時から発輦祭が境内で催されます。浸食など関係者は早朝5時に神社に集まります。 |
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3基の鳳輦は奉安庫から出され、拝殿前に並べられます。8時から神職がまかり出て、3基の鳳輦に神饌などを供えて祝詞を奏上します。すべての氏子の幸せを授け、穢れを清めてくださるようお願いをするわけです。かなり多くの方が見学に来ておりました。 発輦祭の儀式が終わるといよいよ御巡幸の出発です。鳶の方たちが勢揃いで木遣を唄って御巡幸を先導します。鳶は100人もいるでしょうか。 発輦祭を一度ご覧になりませんか。なかなか立派で良いものですヨ。 |
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土曜の午後は隣町町会の神酒所を廻る渡御です。他の祭ではこうした渡御を行わないところも多くありますが、鎌倉町界隈はこの土曜日のイベントも楽しみにしています。多町の交差点に8基の神輿が集まって交差点を閉鎖して一旦神輿を馬に下し、お互いに「明日の宮入が無事に終えられますように」とご挨拶をしてそれぞれの町会に帰るのです。 勇會有志は、午後の渡御に先立って神社に参拝しました。気持ちが引き締まって良い気分のものです。 |
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10日(日曜)、いよいよ宮入です。この日の勇會はほぼ全員集合しました。そこで記念に大神輿の前でパチリ!客人などを含めると60人弱です。よく来てくれました。 鎌倉町は中神田13ヵ町連合の内、今年の駒札は「三番」です。 |
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鎌倉町会大神輿の宮入です。今年の宮入はあまり美しくはなかったね。それでも、他の町会と比べれば、2回ほどやり直して確か3度目には木を入れて神輿を止めました。あっさりしていてイイ感じでした。 |
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直会は事務所近くの「なんしゅう家」で。ちょっと予定外のハプニングもありましたが、何とか無事にすますことができました。 祭礼参加の皆さん、本当にごくろうさまでした。 |
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一昨年まで貸し切りで使わせていただいていた「チムニー」が「華の舞」に改装しちゃいましたので、広く使える会場が無くなってしまいました。その結果右のように駐車場での宴になる会員も出ました。でも結構楽しソ |
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上は稲川親子です。頭がよく似てるでしょ。右の子は星野の長男「勇人ゆうと」ですが、抱いているのは母親ではありません |
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